天気の子の感想!この作品は千と千尋の続編である

映画「天気の子」を見た。この映画は「君の名は」のようにシンプルではなく一筋縄ではいかない作品であるな、と直感的に感じた。

映画を見終わってから考えてしまった。
この作品のテーマはなんだろう?
この作品で新海監督は何を伝えたいのだろうか?

結論からいうとこの映画のテーマは「個人→全体へのパワーバランスの変化」であるとボクは思う。

全体主義から個人主義へと移り変わっていく時代の変化をとらえた作品。それこそが天気の子のメインテーマなのだと感じるのだ。

※この記事は「天気の子」および「千と千尋の神隠し」のネタバレを含みます


・個性を大切にする教育
・会社全体の利益より自分を優先する会社員
・インターネットで自分の見たい情報だけにアクセスする傾向

誰もが全体主義的な世の中が個人主義的になっていくのを感じ取っていると思う。
昭和的な価値観が急速に変化していっているわけだ。

では現代の世の中が個人主義に向かっているとするなら、昔はどうであったのだろうか。
その昔の世界感を表現している最高の作品こそが「千と千尋」である。
「千と千尋」で語られていたのは全体主義の世の中。

そしてその世の中は「天気の子」が示唆するように個人主義の風潮へと変化してしまったのである。

 

 

 

 

千と千尋の神隠しと言う作品は団塊の世代のカタルシスである

上にも書いたように千と千尋のメインテーマは全体主義である。

この映画の世界観の中に、個人の意見が尊重される風潮は全くない。
日本社会を象徴する湯屋。
この閉鎖的な教育施設はゆとり世代の象徴である主人公の千尋ちゃんを昭和的なスパルタ教育でビシバシと教育していく。

社会の冷たさに最初は泣きべそを書いていた千尋ちゃんも、この通過儀礼を乗り越えることによって人として大きく成長する。
そして、彼女は社会においては人間性にすら二面性が存在するのだということも同時に学ぶことになる。
つまり仕事場では非常に厳しい先輩も個人として接した時には優しさを持っているのだ、ということに気づくのである。

この作品の本質は個人より全体を大切にする価値観である。
「社会は冷たいものだ」「仕事をしないヤツは人間ではない」
スパルタ教育を肯定したい前世代的な人達の意見の集合がそこにはある。

つまるところ
「なよなよしている最近の若者をオレたちがしごいて一人前にしてやる!」
そんな昭和的な価値観こそが千と千尋の中核にあるものなのだ。

若者に対する意見の押し付けとエクスタシー。
そして自分たちの望む色へと若者を染め上げ、一人前の社会人として育てあげるまでの過程。
それらが詰まった物語が千と千尋なのである。

 

 

 

 

千尋ちゃんがスパルタ教育の結果として得た能力とは

千と千尋はゆとり人間の成長物語である。
1人の人間が成長していく様を描いているわけだから、物語の中で彼女は当然何らかの能力を得ると言うことになる。
では彼女が得た能力とは一体何なのだろうか?

それは物語の終盤に明かされる、抽象的で説明不能な霊感とも言うべき能力である。
つまり、現実世界へ戻るためにお父さんとお母さんの豚を的確に見抜いたあの能力。心眼である。
この作品のクライマックスは昭和的な価値観の集大成でもあるので、若い人の中にはこのシーンの意味がわからなかった、と言う人も多かったかもしれない。

このシーンをわかりやすく説明するならば、千尋ちゃんが理不尽に耐えて身に付けた能力とは
「寿司屋で10年修行したら身に付く能力」
とでも言い換えることができると思う。
「職人的なカン」とでも表現してもいいかもしれない。

あまりに抽象的すぎて説明することができないが、必ずそこに存在している能力。
なぜなのか?
説明することはできないが「両親の豚がここにいないということはわかる」
これこそが千尋ちゃんが得た能力なのである。

石の上にも3年。
個人の意見などは捨てて、会社や先輩の言う通りにひたすら働き続ければ何かよくわからないがすごい能力が身に付くに違いない、というわけだ。
まさに昭和的だろう。

しかしこの価値観は当時のものとしては全くもって間違ったものではないと思う。
そういったカンや物の本質を見抜く目といった能力は実際に存在するし、その感覚を得るために努力を惜しまない事は昭和的な価値観の美徳でもあったからだ。

ただこうした昭和的な世の中もついに終わりを告げる。
天気の子によって写し出された世界はこの千と千尋の間逆の世界を表しているのだ。

 

 

 

 

天気の子で描かれるのは「虐げられた個が限界を超えてしまった世界」

個人<全体
となっている世界では個人の尊厳が認められない代わりに、会社や世の中は安定する。

そして
全体<個人
となった世界では個人に自由がもたらされるが、世の中全体としては不安定なものになってしまう。

これは世の中の摂理であり、そして世の中というのはいつの時代もどちらかのベクトルに向かって進んでいるものだ。

昭和の時代では個人の意見が軽視されて全体主義的になっていたと言う話は上でも少し話した。
おそらくは令和の時代ではこの風潮が間逆のものとなるのであろう。

悪く言ってしまえば「自分さえよければ社会がどうなったって構わない」と考える人間が増えると言うことだ。

こう書くと、今の世の中は狂い始めているように感じるかもしれない。
しかしボクはそうは思わない。
世の中の風潮と言うのは、すべて起きるべくして発生するものだからだ。
それを象徴しているのが、天気の子が持つ世界観である。

天気の子のヒロインであるヒナちゃんは、たった1人の個人ではあるけど、世界全体に多大な利益をもたらしている。

東京の天気が異常気象程度で済んでいるのはなぜだろうか?
それは彼女1人が我が身を犠牲にして頑張っているからである。
にもかかわらず、世の中の人(社会全体)は決して彼女の努力に気づく事はないし、ましてや感謝などすることもない。
そして自分の利益ばかりを考えて毎日を生きている。

ヒナちゃんからしたら、たまったものではないだろう。
自分の存在にすら気づいていない身勝手な東京の人たちのために、どうしたら自分の命を投げ捨てることができるのだろうか。
「東京が水没したっていい。自分たちが楽しく生きていけるならそれで良い」
彼女がその選択をするのは当然の流れだろう。

このような
無関心な社会に虐げられる個人
という図式は現代における最大のテーマであり、また現実の世界でも大きな問題となっている。

例をあげるとするなら
「企業の社員に対する冷たさ」
が挙げられる。
日本の会社というのは一般的に能力のある社員を優遇することをしない。
どれだけ高い能力を発揮したとしても、それに見合った評価を受けることは難しいのだ。
実際には1人のエース社員によって業務がうまく回っているという会社は多いはずだ。
しかし多くの企業はそのエース社員の貢献について妥当な評価するということをしない。
これは能力のある人にとっては理不尽なことだろう。

そうするとエース社員は何を始めるだろうか。
それはおそらく、天気の子のヒナちゃんと同じ決断だ。
企業(全体)の利益を無視し、自分のためだけに生き始めるのだ。

個人が全体に奉仕することをやめ、自分のことだけを考えて生きる風潮は起きるべくして発生しているようだ。
どうもこの流れを止める事は難しいように見える。

 

 

 

 

天気の子が壊した2つの昭和的価値観

天気の子は昭和的な考え方の真逆に位置する作品なので、たくさんの前世代的な価値観を壊している。

しかし2つにポイントを絞って説明すると
①個を捨てて全体に奉仕する生き方
②犯罪は絶対にしてはいけないという価値観
の2つを上げることができると思う。

①については上で十分に説明したのでここでは②についてもう少し深く掘り下げてみよう。

天気の子の中では様々な犯罪行為が意図的に描かれている。
その犯罪行為を行うのは主人公のホダカくんだ。
・銃を打つ
・立入禁止の線路上を走る
などの犯罪を彼は犯す。

物語の終盤では彼の世話役でありお兄さん的存在であるスガさんは何度もホダカくんの行き過ぎを静止しようと試みる。
「まだ取り返しがつく」「これ以上やったらお前もどうなるかわかるだろう」

犯罪とみなされる行為をやることによって自分の人生に傷がつく。
そして、それが多大なダメージとなることを知っているスガさんはホダカくんにアドバイスをするわけだ。

しかしこの昭和的で常識的なアドバイスはホダカくんには刺さらない。
なぜだろうか?
彼はヒナちゃんに会いたいと言う自分の気持ちに正直に生きているからだ。
そしてそのためには犯罪行為だっていとわないという覚悟を見せつけるのである。

犯罪は確かにいけない。
しかし犯罪と言うのは人を客観的に評価したときに貼るレッテルである。
では逆に人を主観的に評価したときにはどうなるのだろうか。

天気の子の中で線路の上を走っているホダカくんを大衆は犯罪者扱いしているだろう。それはきっとしょうがない。
あの人たちはそこで個別的、主観的に起こっている物語を知り得ないのだから。

しかし映画を見ている私たちにとってはどうだろうか。
私たちはこの映画を主人公の主観的な目線で評価することができる。
そこで起きている物語を知っているボクらが評価するホダカくんはどうなのだろうか?
やはり犯罪者であり絶対的な悪人なのだろうか?

客観的な評価と主観的な評価。
評価軸が変われば、たどり着く結論が真逆のものになるという事はよくあることなのだ。

 

 

 

 

犯罪者が自分は悪くないと言い始める現象について

最後に少しアニメを離れて実際の世の中で起きている現象について話をしてみたい。
犯罪を犯した人がYouTubeなどで「自分は本当は悪くない」と釈明をする現象が起きている。
最近であれば青汁王子さんの動画だろうか。あれは面白い。

この現象はおそらくホリエモンさんから始まったのではないかなぁ、と感じている。
一昔前であれば犯罪者の意見など誰も聞く耳持たなかったと思うけれど、ブログやTwitter YouTubeなどのネットメディアの発達によって状況が変わってきた。

今まではテレビや新聞が一方的にしていた犯罪者認定
それに対して個人が反論の機会を得ることになったわけだ。
これによって何が変わったか。

ボクらは客観的な評価軸と主観的な評価軸の2つを持って人を評価しなければならなくなってしまったのである。
テレビや新聞がする犯罪者認定とは客観的な評価である。
そしてその反対に犯罪者と認定された人がネットメディアで弁明をしている行為。
こちらは主観的なものである。

天気の子の中でホダカくんがやったことを見て「犯罪だ!」と批判的になる古い頭の人もいるだろう。
しかしそれは主観的な基準で評価をする能力が低い人たちの意見だ。
彼の置かれた状況を理解した上で評価をすれば「彼は悪いことをしてないよ」と擁護する人がいることも事実なのだから。

さて、最近はどうも現実世界もそのようになってきているようである。
犯罪を犯してしまった人の主観的な意見がネットを中心に大きくなっているのだ。

ホリエモンさんについて。
彼は犯罪者だから、はなから話を聞く必要はないのだろうか?
青汁王子さんについて。
彼の意見には一部の理すら存在しないのだろうか?
どうも、そう思わない人が増えているように感じるのである。

犯罪者というレッテルの攻撃力は少しずつ減少している。
その現象は全体主義から個人主義へと移り変わっていく世の中の流れと同期しているようである。

 

 

 

 

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yusan

ホーチミン在住7年。元ベトナム語通訳です。日本で働くベトナム人に質の高い教育を施してあげたい。日本に良い人材を送りこみたいという気持ちで教育事業を行なっている日本語教育のプロです。ベトナム人材についてのご相談はボクのメールに直接どうぞ。

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